韓国にルーツを持ちながら日本でも精力的に活動を続けるアーティスト、ジョン・カフカ。日本で開催した個展「PICA」で見つめたのは、人間が生涯抱え続ける「欠乏」というテーマだった。展示の核心について話を伺った。
この世界に、一つの意味しか持たないものはほとんどない

普段の制作において、作品タイトルはどのように決めていますか?
ジョン・カフカ(以下、カフカ) – 私は、作品のタイトルをかなり長い時間をかけて考えます。タイトルは絵と同じ重さを持つ、もう一つの作品と言ってもいいかもしれません。作品の9割ほどは描き始める段階で既にタイトルが決まっていますが、制作中にもメモを残します。聖書の一節やラテン語、古い文学作品、哲学書や論文などで見つけた言葉を書き留めておくことも多く、その中には、時間が経ってもずっと頭の中に残り続ける言葉があります。最終的に作品のタイトルになるのは、そうした言葉です。
二つの意味を持つ言葉をタイトルに選ぶことが多いようですが、そうした「二重性」に惹かれる理由を教えてください。
カフカ – この世界には、一つの意味しか持たないものはほとんどないと思っています。同じ言葉でも、時代が変われば意味が変化しますし、その人次第でまったく違う形で受け取られることもあります。私は、そうした“不完全さ”が好きなんです。
聖書に登場する象徴も、一つの意味だけを持っているわけではありません。光は「希望」であると同時に「審判」でもあり、水は「生命」であると同時に「洪水」や「災厄」でもあります。これは創作においても同じで、鑑賞者が最初は一つの意味として受け取ったものを、時間が経ってから別の意味として再発見できるのであれば、それだけでも作品をより楽しむ要素になると思います。

そして、この感覚はモチーフの選び方にもつながっています。花は、咲いた瞬間から枯れていく時間を同時に抱えていて、生命と死、始まりと終わりを同時に象徴します。魚もまた、キリスト教では古くから信仰を象徴する印として使われてきた一方で、人間が長く留まることのできない水中に生きる存在でもあります。私は一つの対象そのものからインスピレーションを得るというより、そうした異なる意味を持つ象徴同士を結びつけ、新しい関係を生み出していく過程に強く惹かれています。
個展タイトル「PICA」に込めた意味

では、今回の個展のタイトル「PICA」にはどんな意味が込められているのでしょうか。
カフカ – 実は、最初はまったく違うタイトルを考えていました。制作を進めながら、それぞれの作品を貫いているものは何なのかを考え続け、その過程で「満たすことのできないものを、絶えず満たそうとする人間」という一つの言葉に近づいていきました。そんな中で「PICA」という言葉に出会いました。
「PICA」も異なる意味を持つ言葉で、一つは、タイポグラフィで用いられる大きさの単位です。今回の展示では、文字や文章そのものを作品の重要な要素として使用していたため、この意味は作品のビジュアル面とも密接につながっていました。
一方で、医学的には「異食症」を意味する用語でもあります。異食症は、食べ物ではないものを継続的に摂取することを特徴とする実在する疾患です。
特に「PICA」という言葉において私が注目したのは、一つの言葉が、まったく異なる領域の意味を同時に持っているという点でした。タイポグラフィの単位であると同時に医学用語でもある。その隔たりが、私にとって新しいアプローチとして感じられました。そうした考えをもとに、それが鑑賞する人にどのような視覚的イメージとして届くのかを考えました。
人はなぜ、愛や記憶、承認、過ぎ去った時間のように、完全には所有することのできないものを絶えず手元に留めようとするのか。
そして、満たされないものを満たそうとする心を、どのようにイメージとして表現できるのか。「PICA」という言葉が持つ異なる意味の隔たりを出発点として、私はこうした問いを、「人間の渇望や欠乏」というテーマへと発展させていきました。

この疾患を持つ方々の経験や、その原因を作品のテーマと直接結びつけて説明するべきではないと考えています。そのため、リサーチを重ねながら、疾患そのものを解釈したり再現したりすることはなく、作品の中でもそれを直接的に想起させることのないよう注意を払いながら企画しました。
「異食症」についてはどのようなリサーチを行ったのでしょうか。
カフカ – 最初は異食症に関する医学資料や論文だけでなく、「PICA」という言葉がそれぞれの領域でどのように使われているのかについても調べました。
調査を進める中で最も重要だと感じたのは、この疾患を単なる概念や象徴として扱うべきではないということです。実際の疾患には、それぞれ異なる背景や経験を持つ方々が存在しますし、当事者ではない私が、それを一つの原因や感情によって説明することは適切ではないと考えました。
そのため、リサーチを進めるほど、疾患そのものを作品の論理の中へ取り込むのではなく、むしろその部分と自分の作品との境界を明確に分けることを意識するようになりました。
私が作品の中で扱っている「渇望と欠乏」は、異食症の原因を意味するものではありません。愛や記憶、承認、時間のように、人間が生きていく中で経験するさまざまな満たされない心と、それを満たそうとする心について、私が作家として別のものとして考え、発展させた概念です。
企画者の立場では、まず資料を正確に理解し、自分がどこまで語ることができるのかを見極める過程が重要だと考えています。そして作家の立場では、その境界を尊重した状態で、自分の中に残った“問い”をどのように別のイメージや言葉へと発展させていくのかを考える必要があると感じています。
人と物の境界にあるもの

今回の個展のテーマは、人と物の関係性を考えることでもあると思います。それぞれの境界についてどのように考えていますか。
カフカ – 私は、人と物の境界は思っている以上に曖昧なものだと考えています。人は物そのものを使っているのではなく、そこに宿った記憶を使っているのではないかとも思います。
ある人にとっては古びた鉛筆一本が家族と同じくらい大切なものかもしれませんし、一通の古い手紙や詩の一節が、その人の人生そのものを代弁することもあります。私自身も、長く使ってきた万年筆やスケッチブック、本などを簡単には捨てることができません。それらは単なる道具ではなく、時間を共に過ごしてきた記録だからです。結局、人と物の境界を作っているのは機能ではなく、記憶や信じる心なのではないかと思います。
後編では、作品に残された記憶や記録、信仰というテーマと死生観、そして日本と韓国で経験した文化の違いについて、さらに深掘りしていく。募集した質問への回答も。お楽しみに。