未完のアート。

ミラノ冬季五輪、WBC、記憶にも新しいFIFAワールドカップ。2026年を象徴する大きな話題たちだ。とりわけアートの世界において今後も歴史に残るのは、建築家アントニ・ガウディの没後100年と、その命日(6月10日)に併せた、高さ172.5mのメインタワー「イエスの塔」の完成だろう。こちら、1882年の着工から140年以上。完成までに300年かかると噂されてきた名(迷?)建築、スペイン・バルセロナの世界遺産「サグラダ・ファミリア」最高峰のメインタワーだ。そう。アート界には数々の「未完」が存在する。本稿では、「サグラダ・ファミリア」をはじめ、そんな未完のアートをご紹介したい。

Wikimedia commonsより

1852年、スペイン・カタルーニャ地方の小さな町レウスに生まれたアントニ・ガウディ。バルセロナ建築学校を卒業した際、当時の校長は「われわれは天才か狂人かのどちらかに卒業証書を渡した」と語ったという逸話が残るほど、その発想は“常識”を超えていた。直線を嫌い、自然界に存在する曲線やカタツムリの殻、木の枝の構造を建築に取り入れたガウディ。「グエル公園」「カサ・ミラ」「カサ・バトリョ」など、バルセロナを彩る世界遺産として人々を魅了し続けている作品たちだが、カラフルで、不思議なモチーフで、幻想的なデザインが施され、一目見ればわかるほどの独特すぎる建築の風合いが特徴だ。

なかでもサグラダ・ファミリアは、彼が生涯をかけて取り組んだ一世一代の作品。1883年に前任者から引き継いだこの計画に、ガウディは晩年の十数年をほぼ隠遁生活のように捧げ、1926年、路面電車の事故によりその生涯を終えるまで現場に通い続けたという。その後、スペイン内戦による設計図の焼失、資金難、建築様式そのものの複雑さゆえに工事は幾度も中断と再開を繰り返してきた。

壮大すぎる「未完の建築」は21世紀に入り、3Dプリンティングやコンピューター解析技術が導入されたことで劇的に加速し、ついに今年、主塔が完成を迎えた(入り口、装飾や周辺整備は今後も続く)。建設中、「一体いつ完成するんだ?」と周囲から急かされたガウディは、毅然と「私のクライアントは急いでいない」と返したという。クライアントとは、発注主ではなく“神”のこと。目先の完成や、スピードを重視したクオリティではなく、神に捧げるにふさわしい完璧な芸術を。タイパ&コスパ的価値観では決して測ることのできない、「永遠の芸術」を目指したスローな価値がそこにあるのだ。

美術に見る「未完」

ガウディのように、後世の手によって完成へと導かれる作品がある一方で、意図的に、あるいは不本意ながら「未完のまま」で終わり、その状態自体が芸術的価値を持つに至った作品も少なくない。

ルネサンス期を代表する芸術家の一人、ミケランジェロが手がけた「ロンダニーニのピエタ」は、彼が死の直前まで彫り続けていたとされる未完の彫刻だ。イタリアはミラノの「スフォルツェスコ城」で多くの鑑賞者を惹きつける本作。荒々しく削られたままの大理石の表面は、緻密なミケランジェロの作風とは大きく異なる。幾度も構図を変えて彫り直したせいか、キリストと聖母マリアの体は一体化し、削りかけの腕や痕跡がそのままに。完成された作品では見ることのできない生々しい制作過程そのものが刻み込まれている。20代で「ピエタ」によって名声を確立したミケランジェロが、晩年に”自分のためだけ”に制作した「ロンダニーニのピエタ」。もはや抽象彫刻にもみえるその表現への格闘の痕跡は、「未完」ながらも、彼の芸術観と新しい挑戦を物語る象徴的な作品となっているのだ。

Wikimedia commonsより

同時期に活躍した天才、レオナルド・ダ・ヴィンチもまた「未完の巨匠」の代名詞的存在だ。代表作「東方三博士の礼拝」や「聖ヒエロニムス」は下絵のまま彩色されずに残されているし、実は、生涯を通じて完成させた作品の数は驚くほど少ない。ダ・ヴィンチの膨大な手稿やスケッチの数々は、常に次なる探究へと関心が移ろっていった天才の思考の軌跡そのもの。「完成」は思考を止める。その未完の作品やメモをみると「未完成」とは、むしろ創造の永続性を生み出す源泉なのではないかと思わされるのだ。

ここ日本でも未完の名作がある。農作業のかたわら独学で絵を描き続け、北海道を拠点に活動した画家・神田日勝。NHK連続ドラマ「なつぞら」ではモデルの画家役を俳優の吉沢亮が演じたことでも話題となった。強いタッチで馬や農民の姿を描いた作品群は高く評価されているが、なんといっても代表作は「馬(絶筆・未完)」。そのタイトル通り、馬の下半身が描きかけのまま。日勝が32歳で急逝したため未完となった作品だ。その荒々しい筆致と余白は、かえって生々しい生命力を放っている。「未完」であることが逆に作品の求心力を高めることがあるのだ。「神田日勝記念美術館」は’27年3月にリニューアルオープン予定。続報を待とう。

未完成のエトセトラ

音楽の世界にも「未完」は数多い。モーツァルトの「レクイエム」は作曲者の死により未完のまま遺された、クラシック音楽史に残る名曲。映画『アマデウス』や『ヒミズ』などの挿入曲としても使用されるなど、現代においても広く知られる作品であるが、この楽曲は、弟子のジュスマイヤーによって補筆完成され、どこまでがモーツァルト自身の筆によるものかは今も議論の対象となっている。

プッチーニの歌劇「トゥーランドット」もまた、作曲者の急逝により最終幕が未完のまま残されている。1926年『ミラノ・スカラ座』での初演の際には、指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが、ちょうどプッチーニの筆が止まった箇所でタクトを置き、客席に向かって「マエストロはここで亡くなりました」と告げたという伝説的なエピソードが残されている。音楽は譜面さえあればいつだって再現可能な芸術だ。だからこそ、未完の名曲たちに、後世の人々が創造を継ぎ足していく面白さがある。

文学の世界にも未完の作品は数多く存在する。ここ日本では、夏目漱石による絶筆となった『明暗』や1948年の入水自殺により未完となった『グッド・バイ』を遺した太宰治などが有名だ。1993年に68歳で急逝した安部公房にも、その完成がなされないまま永遠の未完作品となった小説がある。ノーベル文学賞を受賞寸前だったと言われる奇才の未完は、遺作の『飛ぶ男』。空中、孤独、不安……安倍工房らしいモチーフが登場する本作は、著者が最後まで推敲を重ねていたとされ、死後に発見されたワープロに残った草稿をもとに刊行された。完結していないがゆえに、読者はその先に広がるはずだった物語を各々の想像力で補うしかない。けれど、それこそが安部文学らしい余韻を残しているともいえるかもしれない。生誕から100年の節目を迎えた2024年に文庫化され、こちらもぜひチェックいただきたい。

海外に目を向ければ、フランツ・カフカの存在を欠かすことはできない。『城』『審判』『失踪者』という代表作のいずれもが未完であり、しかもカフカ自身は死の間際、友人の文芸評論家、マックス・ブロートに「自分の原稿はすべて焼却してほしい」と言い残していた。しかしブロートはその遺言に従わず、未完のまま原稿を編集・出版したことで、今日の「カフカ文学」が世に広く知られることとなったのだ。もしブロートが忠実に遺言を守っていたなら、20世紀文学における最重要作家の一人は、歴史の中に埋もれていたかもしれない。

ガウディのサグラダ・ファミリアが後継者たちの手によって完成へと近づいていったように、未完の作品には、作り手自身が意図せずして、あるいは意図的に、他者の想像力や解釈を招き入れる「余白」が存在する。ミケランジェロの荒々しい彫像の跡、安部公房やカフカが遺した物語。それらはいずれも、完成という「終わり」を迎えることで失われてしまうはずだった何かを、未完成のまま留め置くことで永遠に保存しているようにも思える。「未完」はさまざまな「可能性」と言い換えられるかもしれない。同時代の価値観に収まることなく、想像の余白を残す、未来への挑戦。

現代アートの未完作品

最後に、こんな「未完」の現代アートをご紹介したい。ドキュメンタリー映像や写真作品を手がけるアーティストのタリン・サイモンによる空っぽの陳列棚。

これは、モスクワ現代美術館「ガレージ」で展示したインスタレーション《Black Square XVII》(黒い正方形)。このスペースは将来、ガラス化した核廃棄物から作られた「黒い正方形」を飾る場所なのだ。2015年5月21日に製造された黒い正方形(=核廃棄物)は、放射能が人体への被ばくや展示に安全とみなされるレベルまで低下するまで、モスクワの核廃棄物処分場のなかで保管されている。その日程は3015年、すなわちその誕生から約1000年後。ようやくそれが陳列される予定の現在は「未完」の作品だ。この時間の“空白”に何を思うだろうか。未完とは、終わりなき対話への誘いなのだ。

EDIT: Ryoma Uchida

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