
ヴォルフガング・ベルトラッキは、逮捕後のインタビューで「間違ったことをしたと思いますか?」と問われ、こう答えた。
「間違った絵の具を使ってしまった」と。
天才贋作師と呼ばれた彼が世に送り出した”名画”は300点以上。しかし、そのすべてが彼自身の手による”偽物”だった。
しかも彼が描いていたのは、既存の作品をただコピーしたものだけではない。「もし〇〇がこの時代にこんな作品を描いていたら…」という想像のもと、本来存在しない新作まで制作していたのだ。
それらは世界中で本物として取引され、事件全体で約40億円規模の被害を生み出した。
そして、この事件は決して対岸の火事ではない。
1999年、徳島県立近代美術館が6720万円で購入したジャン・メッツァンジェの『自転車乗り』。そして1996年、高知県立美術館が1800万円で購入したハインリヒ・カンペンドンクの『少女と白鳥』。これらはいずれも20年以上にわたり本物として展示されてきたが、後にベルトラッキ本人が「自分が描いた作品だ」と主張した。
さらに、日本の個人コレクターが所有するマリー・ローランサン作品についても同様の発言をしている。つまり、私たちが「本物」だと思って見てきた作品の中にも、彼の贋作が含まれていた可能性があるのだ。
しかし、ここで少し立ち止まって考えてみたい。
もしその作品が贋作だったとしても、それを見て「美しい」と感じた気持ちまで偽物になるのだろうか?
ベルトラッキはこう語っている。
「私は美しいものを作らなければならない。……人を幸せにしたいんだ。」
もちろん、これは犯罪を正当化する言葉ではない。しかし、この言葉を聞くと、彼が一人の画家としての意識を持っていたこともうかがえる。
実際、彼の父親は教会壁画や名画のコピーを手がける修復師であり、ベルトラッキ自身も幼い頃から父の仕事を手伝っていた。数え切れないほどの本物の名画を間近で観察し、絵具の重なりや筆致、キャンバスの質感まで身体で学んできた経験。それこそが、専門家すら欺く圧倒的な再現力につながったのだろう。

画家ヴォルフガング・ベルトラッキ(Wolfgang Beltracchi)と、写真家マウロ・フィオレーゼ(Mauro Fiorese)の作品による巡回展 /
Wikimedia Commonsより
彼は、専門家たちについてこう振り返る。
「専門家たちのほとんどは真剣だった。本当に真剣だった。彼らの唯一の問題は、私が上手すぎたということだ。」
一見すると挑発的な言葉だ。しかし彼の持つ卓越した知識と技術が、紛れもなく本物だったことは事実である。だとすれば、私たちにとっての”本物”とは何だろう。作品そのものなのか、それとも作者の名前や来歴なのか。
ベルトラッキの存在は、”本物”という価値観そのものを揺さぶっているのかもしれない。