【インタビュー】「満たすことのできないものを、人は絶えず満たそうとする」 アーティスト ジョン・カフカ、個展「PICA」に寄せて – 後編

前編では、個展「PICA」のタイトルに込められた意味や、作品を表す言葉としてのタイトルの重さについて伺ってきた。後編では、作品に漂う記憶や記録、宗教観や死生観、そしてルーツである韓国と日本の文化的相違点について訊いた。

作品は感情を保存するためのツール

『PALIMPSEST』

作品に散りばめられた文章や落書き、時間の表記にはどのような意味がありますか。

カフカ – 私にとって、それらは装飾ではなく「記録」です。絵を描いていると、実際にメモを書いたり、制作した時間を記したり、消してから描き直した痕跡が残ったりします。

以前はそうした痕跡をすべて消そうとしていました。しかし時間が経つにつれて、その過程そのものも作品なのではないかと考えるようになりました。今回の絵は、一つの完成されたイメージというよりも、一冊のノートのようなものとして捉えています。画面の中にある文章や数字は、何らかの意味を解読してもらうための暗号ではなく、私がその絵と共に過ごした時間の痕跡です。

作品そのものについても、「記録」というニュアンスがあるのですね。

カフカ – 私は、作品とは感情を保存するための一つの方法だと考えています。人は記憶を完璧に保存することができません。私にとって絵は、その瞬間の自分自身をそのまま残してくれるものだと思っています。時間が経ってから昔の作品を見ると、絵そのものよりも先に、その当時の自分が何について悩んでいたのか、何を考えていたのかを思い出すことがあります。自分がどのような問いを追いながら生きてきたのかを記録しながら、未来の自分がこれからどんな言葉でこれらの感情を表現するのか、それが自分でも楽しみなんです。

消えてしまうものを必死で掴む

『VITRUNE』

普段のカフカさん自身が、手に入らないものに手を伸ばしてしまうような、何かに渇望することはありますか?

カフカ – 「完全さ」や「確信」、「才能」、「インスピレーション」など、そうしたものを欲してしまうことがあります。その中でも、やはり最も強く渇望しているのは「時間」です。何かを記録し、残そうとする行為そのものが、結局は消えていくものを必死に掴もうとする行為なのかもしれません。満たされない部分をそのまま抱えながら生きていくことは、とても怖いことです。今はそれを少しずつ受け入れ、自分の中で消化していこうともがいています。

「信じる」ことの力と危うさ

前回のBAMでのインタビューでは、「人々の信仰心」を今後の制作のきっかけにしたいと話されていました。信仰にまつわる印象的なエピソードはありますか?

カフカ – 私はクリスチャンというわけではありませんが、家族や親戚の中にはキリスト教や仏教を信仰している人が多く、宗教そのものには自然と触れながら育ってきました。ただし、私の作品は特定の宗教について説明したり、何かを布教したりするためのものではありません。私にできることは、原典やそこに存在する物語を、現代を生きる人間の視点から再解釈することだと思っています。

『CORRUPT 』

信仰によってより良い人生を送っている人も見てきました。一方で、誤った信念や盲目的な信仰によって人生そのものが壊れてしまう姿を目にしたこともあります。「信じる」という目に見えないものが、人間に対してどれほど大きな力を持つのか。同時に、盲目的に何かを信じることが持つ危険性についても考えるようになりました。

日本ではさまざまな宗教や信仰が混ざり合う「神仏習合」の文化があります。韓国にルーツを持つカフカさんから見て、日本人の信仰心はどのように映りますか?

カフカ – 韓国では、信仰が比較的はっきりとした形で表れることが多いように感じます。一方で日本では、特定の宗教を強く意識するというより、信仰そのものが生活や文化の中に自然と溶け込んでいるような印象を受けました。創作者の立場から見ると、そうした姿勢はとても興味深いです。日本の信仰文化は宗教という枠組みを超えて、「時間を積み重ねていく一つの方法」のようにも感じられます。日本と韓国のどちらも、自国の信仰や宗教について真剣に向き合っているということは、とても良いことだと思っています。

花は、咲くことと枯れることが同時に存在しているからこそ美しい

『FLORILEGIUM』

今回展示される作品の一つ、『FLORILEGIUM』では生と死について考えた作品だと伺いました。カフカさんにとって生と死の境界線はどこにあると考えていますか。

カフカ – これは私自身もよく自分に問いかける質問です。身体的な基準で考えれば、心臓が止まる瞬間のように、明確に定義できる基準はあると思います。ただ、人間が「生」と「死」を受け入れる方法は、もっと複雑なものだと思っています。

花は咲いているその瞬間から、すでに枯れていく時間を内包しています。だからといって、枯れ始めた瞬間から死んでいると言うこともできません。むしろ咲くことと枯れることが同時に存在しているからこそ、花は美しいのだと思います。人間もそれと似ていると思います。私たちは生きている間にも絶えず何かを失い、その一方で何かを残し続けています。

もしかすると、生と死はまったく別のものというより、実は同じものの異なる状態なのかもしれません。

異なる信仰を持つ日本と韓国ですが、展示や芸術的観点での文化の違い、鑑賞者の反応の違いを感じることはありますか?

カフカ – 韓国では、制作過程や技術的な部分について質問してくださる方が多い印象があります。色をどのように使っているのか、どんなブラシを使っているのかといった非常に具体的な質問を受けることもよくあります。一方日本では、作品を見て受けた感情や、印象に残った文章について話してくださる方が多いように思います。

今回の「PICA」展でも、絵そのもの以上に、作品の中に書かれた文章について質問してくださる方が多くいらっしゃいました。それは私にとって、とても嬉しい経験でした。絵だけではなく、自分が考えてきた物語や言葉まで一緒に届いていたということだと思ったからです。

『SANE』

今回の日本滞在で、その他に印象に残ったことがあれば教えてください。

カフカ – 今回の滞在で最も印象に残ったのは、お会いした人たちです。久しぶりに会った日本の作家の方々と話をしながら、お互いの悩みを共有したり、制作についての考えを話し合ったりすることができました。一人で制作している時間が長いと、創作者はどうしても自分自身の世界の中に閉じこもりやすくなります。しかし、他の作家と会話をすると、自分ではまったく予想していなかった視点に出会うことがあります。

今回の「PICA」は日本で完成した展示でしたが、同時に次の作品が始まるきっかけになった展示でもあります。これからも絵を通して人々と問いを共有し続ける作家として、成長していきたいと思っています。

丁寧に、それでいて大胆に言葉を選び取っていくジョン・カフカ。作品を通じて私たちに、あらゆるものにある境界の意味を問い直してくれる。今後の活動からも目が離せそうにない。

【インタビュー】「満たすことのできないものを、人は絶えず満たそうとする」 アーティスト ジョン・カフカ、個展「PICA」に寄せて – 前編

韓国にルーツを持ちながら日本でも精力的に活動を続けるアーティスト、ジョン・カフカ。日本で開催した個展「PICA」で見つめたのは、人間が生涯抱え続ける「欠乏」というテーマだった。展示の核心について話を伺った。

この世界に、一つの意味しか持たないものはほとんどない

『APOCRYPHA』

普段の制作において、作品タイトルはどのように決めていますか?

ジョン・カフカ(以下、カフカ) – 私は、作品のタイトルをかなり長い時間をかけて考えます。タイトルは絵と同じ重さを持つ、もう一つの作品と言ってもいいかもしれません。作品の9割ほどは描き始める段階で既にタイトルが決まっていますが、制作中にもメモを残します。聖書の一節やラテン語、古い文学作品、哲学書や論文などで見つけた言葉を書き留めておくことも多く、その中には、時間が経ってもずっと頭の中に残り続ける言葉があります。最終的に作品のタイトルになるのは、そうした言葉です。

二つの意味を持つ言葉をタイトルに選ぶことが多いようですが、そうした「二重性」に惹かれる理由を教えてください。

カフカ – この世界には、一つの意味しか持たないものはほとんどないと思っています。同じ言葉でも、時代が変われば意味が変化しますし、その人次第でまったく違う形で受け取られることもあります。私は、そうした“不完全さ”が好きなんです。
聖書に登場する象徴も、一つの意味だけを持っているわけではありません。光は「希望」であると同時に「審判」でもあり、水は「生命」であると同時に「洪水」や「災厄」でもあります。これは創作においても同じで、鑑賞者が最初は一つの意味として受け取ったものを、時間が経ってから別の意味として再発見できるのであれば、それだけでも作品をより楽しむ要素になると思います。

『溺』

そして、この感覚はモチーフの選び方にもつながっています。花は、咲いた瞬間から枯れていく時間を同時に抱えていて、生命と死、始まりと終わりを同時に象徴します。魚もまた、キリスト教では古くから信仰を象徴する印として使われてきた一方で、人間が長く留まることのできない水中に生きる存在でもあります。私は一つの対象そのものからインスピレーションを得るというより、そうした異なる意味を持つ象徴同士を結びつけ、新しい関係を生み出していく過程に強く惹かれています。

個展タイトル「PICA」に込めた意味

『DAISY』

では、今回の個展のタイトル「PICA」にはどんな意味が込められているのでしょうか。

カフカ – 実は、最初はまったく違うタイトルを考えていました。制作を進めながら、それぞれの作品を貫いているものは何なのかを考え続け、その過程で「満たすことのできないものを、絶えず満たそうとする人間」という一つの言葉に近づいていきました。そんな中で「PICA」という言葉に出会いました。

「PICA」も異なる意味を持つ言葉で、一つは、タイポグラフィで用いられる大きさの単位です。今回の展示では、文字や文章そのものを作品の重要な要素として使用していたため、この意味は作品のビジュアル面とも密接につながっていました。

一方で、医学的には「異食症」を意味する用語でもあります。異食症は、食べ物ではないものを継続的に摂取することを特徴とする実在する疾患です。

特に「PICA」という言葉において私が注目したのは、一つの言葉が、まったく異なる領域の意味を同時に持っているという点でした。タイポグラフィの単位であると同時に医学用語でもある。その隔たりが、私にとって新しいアプローチとして感じられました。そうした考えをもとに、それが鑑賞する人にどのような視覚的イメージとして届くのかを考えました。

人はなぜ、愛や記憶、承認、過ぎ去った時間のように、完全には所有することのできないものを絶えず手元に留めようとするのか。

そして、満たされないものを満たそうとする心を、どのようにイメージとして表現できるのか。「PICA」という言葉が持つ異なる意味の隔たりを出発点として、私はこうした問いを、「人間の渇望や欠乏」というテーマへと発展させていきました。

『12』

この疾患を持つ方々の経験や、その原因を作品のテーマと直接結びつけて説明するべきではないと考えています。そのため、リサーチを重ねながら、疾患そのものを解釈したり再現したりすることはなく、作品の中でもそれを直接的に想起させることのないよう注意を払いながら企画しました。

「異食症」についてはどのようなリサーチを行ったのでしょうか。

カフカ – 最初は異食症に関する医学資料や論文だけでなく、「PICA」という言葉がそれぞれの領域でどのように使われているのかについても調べました。

調査を進める中で最も重要だと感じたのは、この疾患を単なる概念や象徴として扱うべきではないということです。実際の疾患には、それぞれ異なる背景や経験を持つ方々が存在しますし、当事者ではない私が、それを一つの原因や感情によって説明することは適切ではないと考えました。

そのため、リサーチを進めるほど、疾患そのものを作品の論理の中へ取り込むのではなく、むしろその部分と自分の作品との境界を明確に分けることを意識するようになりました。

私が作品の中で扱っている「渇望と欠乏」は、異食症の原因を意味するものではありません。愛や記憶、承認、時間のように、人間が生きていく中で経験するさまざまな満たされない心と、それを満たそうとする心について、私が作家として別のものとして考え、発展させた概念です。

企画者の立場では、まず資料を正確に理解し、自分がどこまで語ることができるのかを見極める過程が重要だと考えています。そして作家の立場では、その境界を尊重した状態で、自分の中に残った“問い”をどのように別のイメージや言葉へと発展させていくのかを考える必要があると感じています。

人と物の境界にあるもの

『STRAY 』

今回の個展のテーマは、人と物の関係性を考えることでもあると思います。それぞれの境界についてどのように考えていますか。

カフカ – 私は、人と物の境界は思っている以上に曖昧なものだと考えています。人は物そのものを使っているのではなく、そこに宿った記憶を使っているのではないかとも思います。

ある人にとっては古びた鉛筆一本が家族と同じくらい大切なものかもしれませんし、一通の古い手紙や詩の一節が、その人の人生そのものを代弁することもあります。私自身も、長く使ってきた万年筆やスケッチブック、本などを簡単には捨てることができません。それらは単なる道具ではなく、時間を共に過ごしてきた記録だからです。結局、人と物の境界を作っているのは機能ではなく、記憶や信じる心なのではないかと思います。

後編では、作品に残された記憶や記録、信仰というテーマと死生観、そして日本と韓国で経験した文化の違いについて、さらに深掘りしていく。募集した質問への回答も。お楽しみに。

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