海を見せられなかったけれど。久保田雅人が「ワクワクさん」として走り抜けた23年間 – 前編

どうして、「ワクワクさん」なのか。

それには明確な理由があった。これまでそれなりの数のアーティストに話を聞いてきたが、その中で、生まれや育ちが全く異なる彼ら、彼らの作品・作風に、環境がもたらす影響は少なからずあったと思う。

それぞれが十色の人生を歩み、今の作家人生を歩んでいる。

そんな中、ひょっとすると、NHK Eテレで23年に渡り放送されてきた『つくってあそぼ』が、彼らの創作の原体験だったかもしれないのだ。

記憶の片隅に残っているあの「赤い帽子のおじさん」に話を聞くべきだ。頭の中でイメージが固まった。物心がつくかつかないかのちょうどその頃の、薄れつつある記憶を握りしめて。

エピソード0 – ワクワクさんがワクワクさんになる前

紙パックで作った自作の筆箱からペンを取り出す「ワクワクさん」こと久保田雅人さん

23年間「ワクワクさん」として活動されてきた久保田さんですが、幼い頃からものづくりに触れる環境があったのでしょうか?

久保田 雅人(以下、久保田) – 私は昭和36年(1961年)生まれでして、我々の世代は、自分たちでおもちゃを作るのが当たり前の時代だったんです。それから、プラモデルブームというのもありました。私も本当にプラモデルが好きで、色々なものを自分で作っていました。そして何より、うちの父親がとても器用な人だったんです。

お父様は何かを作るお仕事だったのですか?

久保田 – それが、普通のサラリーマンでした。ただ、ものすごく器用で、家にはあらゆる大工道具が揃っていました。例えば、ご家庭にノコギリといったら、普通は1本あればいい方ですよね?

そうですね。私の家には1本もありません(笑)。

久保田 – そうかもしれませんね。でも、うちには10数種類ありました。

サラリーマンのご家庭なのに、ですか!?

久保田 – それだけじゃありません。普通は家にない「カンナ」も、細工用のものまでありましたし、「ノミ」だけでも10数本。そんな道具が揃っている環境で育ちましたから、子供の頃から「自分で作る」というのが当たり前だったんです。

巨大凧と「仕掛け付き」の犬小屋

この日はお馴染みの赤い帽子はお預け。後に登場する“大人の事情”で被れないんだとか。

お父様からの影響は相当大きかったのですね。

久保田 – そうですね。ある時、父親が突然「正月用の凧を作ろう」と言い出しまして。まず竹を買ってくるところから始まるんです。それを自分でナタで割いて、小刀で削って細くして、木綿糸で結んで組む。さらに自分で糊を調合して和紙を貼る。そうやって、畳一畳分ぐらいの巨大な凧を作っちゃったんですよ。

畳一畳分! 相当な大きさですよね?

久保田 – このテーブル(取材時の机)と同じくらいですね。それを揚げに行ったら、こんなにも大きな凧が本当に小さく見えるほど、グーンと高く上がったんです。そんな父親のもとで育ったので、自然とものづくりが好きになりました。

お父様は、完全に趣味として大工仕事をされていたのでしょうか。

久保田 – これといった趣味はなかったようですが、とにかく大工仕事が好きでしたね。一度、犬小屋を作った時も凄かったんです。普通の小屋とは訳が違って、中が掃除しやすいように屋根が開く。しかも、ただ開くだけじゃない。開けた途端に、仕込んである「つっかえ棒」が自然に下りてきて、手を離しても屋根が閉まらないようになっているんです。

すごい、 プロの仕事ですね。

久保田 – 掃除が終わった後、その棒をちょっとはたけば、パタンと閉まる。そんな仕掛けがついた犬小屋を自分で作ってしまうサラリーマンでした。実家を引っ越して50年以上経ちますが、父親が作った棚は今も現役で使えています。子供心に「なんでうちの父親は宮大工にならなかったんだろう」と思うくらい器用でしたね。私のものづくり好きは、間違いなく父親から来ています。

凝り性が加速した、高校時代のプラモデル制作


小・中学校、高校と進む中で、やはり放課後は工作をされていたんですか?

久保田 – 小学生の頃はそうでもなかったのですが、高校時代は帰宅してからずっとプラモデルを作っていました。当時はタミヤの「1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ」や、ハセガワの「1/700 ウォーターラインシリーズ(戦艦)」、あとは飛行機ですね。例えば飛行機を作るなら、まず雑誌を買ってきて、零戦の内部写真などを徹底的に調べる。そして、キットには入っていない部品をプラ板で自作して足していくんです。さらに、小さな人形の「口」を開けて表情をつけたり。設計図は描かず、頭の中で「ああだろう、こうだろう」と考えながら即興で改造していました。

お父様譲りのこだわり具合ですね。

久保田 – いきなり機体の色を塗るのではなく、まずは下地に「銀色」を塗るんです。その上から本来の色を塗り、乾いた後に少しだけ削る。そうすると下地の銀色が出てきて、使い古した金属の質感が出るんですよ。嫌なガキでしょう?(笑)

日本史の先生になるはずが、なぜか「劇団」へ

そんな高校時代を経て、やはり進路も美術系を考えられたのですか?

久保田 – 実は日本史の先生になる予定だったんです。高校で日本史に興味を持ち、大学は文学部に進みました。私はよく「芸大や美大、保育系の学校出身」だと思われがちなのですが、美術も芸術も、学校で勉強したことは一度もないんです。

教員免許も取られたんだとか。

久保田 – 一応取りました。でも、大学4年生で教育実習に行ったり、採用試験の勉強をしたりしているうちに「……俺、これ無理だな」と思ってしまったんです。試験に受かる自信もないし、実習もうまくいかない。
そんな時、たまたま立ち読みした雑誌に、三ツ矢雄二さんが座長、田中真弓さんが副座長を務める劇団「プロジェクト・レヴュー」の第1期生募集が出ていたんです。

運命の歯車が動き始める

この日、つくってあそんだものは後ほどご紹介

久保田 – 当時はプラモデルの傍ら、落語もやっていたんです。その流れで「ちょっと芝居をやってみよう」と思い立ち、勢いで応募しました。ただ、当時はとにかく貧乏で、オーディションの費用が払えなかったんです…。友達に借りましたよ。その上、オーディション費を現金書留で送る送料すらもなかったんです。それもまた別の友達から借りて、どうにか応募しました。

お父様は急な進路変更を許してくれたのですか?

久保田 – 凄く怒られました。当然ですよね、大学4年までいって急に「劇団に入る」なんて言い出したんですから。実は大学に入学した時も一悶着あったんです。父親からは将来を考えて「経済学部か経営学部に行け」と言われていたんですが、私はどうしても日本史がやりたかった。必死に頼み込んで許可をもらった代わりの条件が、「1単位でも落としたら学費を全額止める」というシビアなものでした。

留年ではなく「1単位」でも、ですか。

久保田 – そう、だから入試よりも勉強しましたよ。その結果、人生で唯一の表彰状をもらい、1年間だけ特待生(授業料免除)になりました。

それはすごい! お父様も喜ばれたのでは?

久保田 – 一度収めた授業料が「現金」でバックされて、約束通り勉強したし、「もしかするとくれるかな…?」と思っていたんですが、全額回収されてしまいました(笑)。厳しい父親でしたが、出してもらった学費ですから文句は言えませんね。

大道具係から「ワクワクさん」誕生へ

「ワクワクさん」でお馴染みの久保田雅人さん

劇団に入ってからも、ものづくりの経験は活かされたのでしょうか。

久保田 – 劇団は大道具・小道具も自分たちで作りますから、私は実家から父親の道具を持って行って、若手に教えながらガンガン作っていました。もともとミュージカル劇団だったのですが、結局一度もソロで歌わせてもらえず、途中から完全にお笑い担当でしたけどね(笑)。そんな中ある時、田中真弓さんから「NHKで高見のっぽさんの後継者を探している」というお話を頂いて。「うちで大道具・小道具を作っていて、喋らせるとちょっと面白いのがいるから」と、私を推薦してくださった。

それが26歳の時ですね。

久保田 – そうです。それまでも教育番組や民放のレポーター、CMなど、オーディションは山ほど受けてきましたが、全部落ちていました。受かったのは、デビュー作とワクワクさんだけです。

そうして平成元年の6月頃、「ワクワクおじさん」という名前のパイロット版(試作番組)が始まったんです。

後編に続く。

EDIT: Ryo Kobayashi

PHOTO: Ari Ninomiya

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