海を見せられなかったけれど。久保田雅人が「ワクワクさん」として走り抜けた23年間 – 後編

「ワクワクさん」になるずっと前から、物作りと共にあった久保田さん。ただ、あくまで父親同様、それを仕事にしようなどとは考えてもいない。そんな彼が経験した学生時代の挫折、ちょっとの思い切りが、後に23年続く長寿番組『つくってあそぼ』を生み出すことになる。駆け出しの彼は、そんなことを知る由もない。

幼稚園を駆け回った20代

久保田 雅人(以下:久保田) – 平成元年の6月頃に、パイロット版『ワクワクおじさん』が始まったんです。当時はまだ26、7歳。その後の12月にもう1本、試作番組を作りました。その時に初めて登場したのが「ゴロリくん」です。「レギュラーになるわけないな…」と思っていたら、忘れもしません、平成2年4月3日からレギュラー放送が決まりまして。それからが本当に大変でした。

生活が一変したのでしょうか?

久保田 – というより、そもそも私は工作の勉̇強̇なんてしたことがなかったですから。その上、番組の対象は保育所や幼稚園の子供たち。普段作っていたプラモデルとは全く違う制作をやらなければいけなかったんです。
子供がどこまで理解できるのか、何が面白いと思うのか、全くわからない。そこで、NHKに視聴協力をしてくださっている幼稚園に自分から電話をして、「こういう番組をやることになったので、お邪魔してもよろしいでしょうか」とお願いして回ることから始めました。

幼稚園を回って、具体的にどのようなことをしていたのですか?

久保田 – 子供たちの前で実際に工作をして、どういうことがウケるのか、どんな喋り方が面白いのかを自分の頭に叩き込むんです。そこから勉強しないといけなかった。「ワクワクさん」になってからの方が大変でしたね。

「父」になったことで訪れた、3年目の転機

「ワクワクさん」でお馴染みの久保田雅人さん

久保田 – 手応えを感じるまでに3年かかりました。3年経って、ようやく「ゴロリくん」とも上手く噛み合うようになり、人に見せられるものになったと思います。

何か大きな転機があったのでしょうか?

久保田 – 自分が父親になったんです。「『ワクワクさん』、良くなったね」と言われるようになったのは、そこからなんですよ。自然と子供に対する接し方や、見せ方、喋り方が変わったんでしょうね。

不思議な巡り合わせですね。

久保田 – 不思議なものです。最初はEテレの最短記録を作るんじゃないかと思うくらい、自分でもオンエアを見て「ダメだな」と思っていましたから。まさか23年も、番組終了後も含めて30年以上も続くなんて思ってもみませんでしたね。

「ワクワクさん」でお馴染みの久保田雅人さん。この日つくってあそんだものは最後にご紹介

「のり弁」か、フランス料理か。

長く続けていく中で、どんな悩みがありましたか?

久保田 – 番組で紹介する工作のアイデアは、すべて造形作家のヒダオサム先生によるものです。つまり、ヒダ先生が「名作曲家」だとしたら、私と「ゴロリくん」は「名演奏家」でなければならない。どんなに素晴らしい楽曲でも、演奏が悪ければ評価されません。どうすればより良く見せられるか、これは今でも私の課題です。ただ、一時「失敗したな」と思う時期もありました。

どういうことでしょうか。

久保田 – イベントなどを重ねるうちに、「欲」が出てくるんです。もっと大きな会場でやりたい、もっと長いストーリー性のあるものをやりたい……。でも、それは間違いでした。お客様や子供たちの受けが良くなかったり、意図が伝わっていなかったり。その時に気づいたのが「のり弁」の精神です。

のり弁、ですか。

久保田 – スタートは「のり弁」なんです。それがいつの間にか「幕の内弁当」になり、さらに「重箱」になり、最終的には「フランス料理のフルコース」を目指してしまう。だけど、お客様が来てくださるのは、最初の「のり弁」が美味しかったからなんです。
だから、もう一度「のり弁」に戻ろうと。より良い「のり弁」を作ろうという思いに至りました。アーティストの方も同じかも知れません。自分がなぜ最初に支持されたのか、その根本を忘れてしまってはいけないんです。

美術界の「裾野」を広げるという使命

ご自身のやりたいことと、求められることのバランスに気づかれたのですね。

久保田 – やりたいことは次々に出てきます。でも根本は忘れてはいけない。私と「ゴロリくん」の仕事は、アートや美術という大きなピラミッドの一番下、「裾野」を広げることだったんです。

今、最前線で活躍しているクリエイターの方々も、間違いなく見ていた世代だと思います。

久保田 – ありがたいことです。以前、東京藝術大学の助教授の方が「私のスタートは『ワクワクさん』でした」と言ってくださったことがあって。改めて、私たちの仕事は、この裾野を広げることにあったんだと感じました。だから、そこから先は皆さんにてっぺんを目指してほしい。それが一番嬉しいです。

30年来の相棒、「ゴロリくん」との三重奏

「ワクワクさん」でお馴染みの久保田雅人さん

長い活動の中で、一番こだわったことは何ですか?

久保田 – 3人で、『つくってあそぶ』ということです。「ゴロリくん」の操演(中に入っている)の古市次靖くん、そして声を当てる中村秀利さんの3人で、延々と会議をしました。「あれが違う、これが違う」と。

あの「ゴロリくん」との会話は、そんな風に作り込まれていたのですね。

久保田 – ただ、よくやっていたゲームのコーナーでは台本がないんですよ。「用意スタート。以下実況中継風アドリブ」としか書いてありません(笑)。最後も「勝者:わーい/敗者:くぅ残念」だけ。つまり「真剣に遊んでいいよ」ということなんです。
その様子に、中村さんがモニターを見ながら即興で声を当てていました。後アテは無理です。「ゴロリくん」の動きを見てその場で当てる「生アテ」なんです。まさに三位一体。息が合うまでには時間がかかりましたが、あの会話のアドリブ合戦こそが番組の楽しみだったんですね。

忖度なしで、「ゴロリくん」が勝つことも多かったですよね。

久保田 – 彼は年長者を敬う気持ちがないですから、真剣に勝ちにきます(笑)。でも、それでいいんです。子供は大人の嘘を見抜きます。何回目にどっちが勝つとか、そんな段取りは面白くない。ガチンコでやっているからこそ、楽しんでもらえたんだと思います。

素敵な話ですね…。今でもお会いになるのですか?

久保田 – 「ゴロリくん」(古市さん)とは、今でも月に1、2回は飲みに行っていますよ。彼とは10歳ほど離れていますが、意見を戦わせることで良いものが生まれます。操演者としての工作、「ゴロリくん」としての工作、「ワクワクさん」としての工作。リードするのは私ですが、二人で一緒に作ることで一つのものが完成する。だから、タイトルが『つくってあそぼ』なんです。「作る」こと自体も遊びですが、その作ったもので「いかにして遊ぶか」までを紹介するから『つくってあそぼ』なんです。

私生活のすべてを捧げた「ワクワクさん」としての23年間

NHK時代は発信できなかった多くのことをYouTubeでは実践できると語る久保田さん。
当時の番組には、「材料がどこに売っているか」の問い合わせが殺到していたが、具体的な店舗名・商品名を発信することが出来なかったんだそう。親御さんたちの知りたい「どこで買えるか」の情報が盛りだくさんのYouTubeチャンネルだ。

子供たちの憧れであり続けるために、私生活での制約も多かったのではないでしょうか。

久保田 – NHKの教育番組の出演者には、いろいろな制約があります。まず、「日焼け」は厳禁。9月に収録したものが12月に放送されることもありますから、真っ黒に日焼けした顔で「メリークリスマス」なんて言えません。それから指輪もダメ、ピアスもダメ。収録の時に外しても痕が残りますからね。さらに、海外旅行も基本的には控えます。

海外旅行までですか?

久保田 – 万が一、向こうで何かあって帰ってこれなくなったらどうするんだ、ということです。横断歩道を必ず渡るとか、そういった立ち振る舞いも徹底していました。おかげで、私の子供たちは父親と夏の海に行ったことがありません。お父さんが日焼けできないから、近所の公営屋内プールだけ。夏の海に行けない理由がお父さんにあるというのは、子供たちには可哀想なことをしたと思います。

タイムスリップしても、もう一度。

「ワクワクさん」でお馴染みの久保田雅人さん

久保田雅人としての私生活の多くを犠牲にした上で「ワクワクさん」が成り立っていたのですね。もし、大学4年生の時、立ち読みした瞬間に戻れるとしたら、またその本を手に取りますか?

久保田 – そうですね…。もう一度戻っても、同じことをやるでしょうね。「ワクワクさん」として生きてきた人生に後悔はありません。
もちろん「もっと勉強して大学院に行きたかったな」という思いもどこかにありますが、この道に後悔はありません、楽しかったですから。番組を見た子供たちがものづくりを楽しんでくれた、それだけでやって良かったと思えます。

ご自身のお子さんも誇らしかったと思います。

久保田 – 一つだけ父親として良かったのは、「自分の我が子に胸を張って見せられる番組」をやれたことです。ただ、家で子供と一緒に工作をすることはありませんでした。家では「工作はお父さんの仕事」と伝えていました。

「遊び」ではなく、あくまで「仕事」として。

久保田 – そうしないと、お父さんが仕事をしているのか遊んでいるのか分からなくなってしまいますからね(笑)。

インタビューが終わり、用意した部屋を一度空にする。わざわざ着替えて頂いた「仕事着」を脱ぎ、普段の久保田雅人としての姿に戻る為だ。出てきた久保田さんは、どこにでもいる、普通の男。23年もの長距離走の中には、子供にはもちろん、大人にさえ見えない様々な葛藤、制約を孕んでいる。「海を見せられなかった子供たちには申し訳ないことをした」と語る彼に悲哀を感じなかった訳ではない。ただ、あの時、あの本屋に戻れたとして、もう一度その本を手に取ると言い切った彼の目は、高く舞い上がった凧を見上げるように、穏やかなものだった。

最後に、この日に久保田さんが教えてくれた工作をご紹介

1 – 1枚の色画用紙を用意します。

2 – 縦3等分に折り目を付けましょう。

3 – 線に沿ってハサミで切り、細長い3枚の紙にしましょう。

4 – さて、使うのは一枚です。ここがポイント。半分から少しだけずらして折ります。

5 – 真ん中に少しだけ切り込みを入れ、切り込みに合わせて半分に折ります。

6 – そうすると、あら不思議。上下にスライドさせると、噴水のように2つの紙が膨らみます。

7 – さて、これでどうやって遊びましょうか。

8 – ペンで目や鼻を描いて、リボンのような形にあらかじめ切った赤い画用紙を間に貼り付けると…。

9 – はい、ヘビさんになりました!!!

海を見せられなかったけれど。久保田雅人が「ワクワクさん」として走り抜けた23年間 – 前編

どうして、「ワクワクさん」なのか。

それには明確な理由があった。これまでそれなりの数のアーティストに話を聞いてきたが、その中で、生まれや育ちが全く異なる彼ら、彼らの作品・作風に、環境がもたらす影響は少なからずあったと思う。

それぞれが十色の人生を歩み、今の作家人生を歩んでいる。

そんな中、ひょっとすると、NHK Eテレで23年に渡り放送されてきた『つくってあそぼ』が、彼らの創作の原体験だったかもしれないのだ。

記憶の片隅に残っているあの「赤い帽子のおじさん」に話を聞くべきだ。頭の中でイメージが固まった。物心がつくかつかないかのちょうどその頃の、薄れつつある記憶を握りしめて。

エピソード0 – ワクワクさんがワクワクさんになる前

紙パックで作った自作の筆箱からペンを取り出す「ワクワクさん」こと久保田雅人さん

23年間「ワクワクさん」として活動されてきた久保田さんですが、幼い頃からものづくりに触れる環境があったのでしょうか?

久保田 雅人(以下、久保田) – 私は昭和36年(1961年)生まれでして、我々の世代は、自分たちでおもちゃを作るのが当たり前の時代だったんです。それから、プラモデルブームというのもありました。私も本当にプラモデルが好きで、色々なものを自分で作っていました。そして何より、うちの父親がとても器用な人だったんです。

お父様は何かを作るお仕事だったのですか?

久保田 – それが、普通のサラリーマンでした。ただ、ものすごく器用で、家にはあらゆる大工道具が揃っていました。例えば、ご家庭にノコギリといったら、普通は1本あればいい方ですよね?

そうですね。私の家には1本もありません(笑)。

久保田 – そうかもしれませんね。でも、うちには10数種類ありました。

サラリーマンのご家庭なのに、ですか!?

久保田 – それだけじゃありません。普通は家にない「カンナ」も、細工用のものまでありましたし、「ノミ」だけでも10数本。そんな道具が揃っている環境で育ちましたから、子供の頃から「自分で作る」というのが当たり前だったんです。

巨大凧と「仕掛け付き」の犬小屋

この日はお馴染みの赤い帽子はお預け。後に登場する“大人の事情”で被れないんだとか。

お父様からの影響は相当大きかったのですね。

久保田 – そうですね。ある時、父親が突然「正月用の凧を作ろう」と言い出しまして。まず竹を買ってくるところから始まるんです。それを自分でナタで割いて、小刀で削って細くして、木綿糸で結んで組む。さらに自分で糊を調合して和紙を貼る。そうやって、畳一畳分ぐらいの巨大な凧を作っちゃったんですよ。

畳一畳分! 相当な大きさですよね?

久保田 – このテーブル(取材時の机)と同じくらいですね。それを揚げに行ったら、こんなにも大きな凧が本当に小さく見えるほど、グーンと高く上がったんです。そんな父親のもとで育ったので、自然とものづくりが好きになりました。

お父様は、完全に趣味として大工仕事をされていたのでしょうか。

久保田 – これといった趣味はなかったようですが、とにかく大工仕事が好きでしたね。一度、犬小屋を作った時も凄かったんです。普通の小屋とは訳が違って、中が掃除しやすいように屋根が開く。しかも、ただ開くだけじゃない。開けた途端に、仕込んである「つっかえ棒」が自然に下りてきて、手を離しても屋根が閉まらないようになっているんです。

すごい、 プロの仕事ですね。

久保田 – 掃除が終わった後、その棒をちょっとはたけば、パタンと閉まる。そんな仕掛けがついた犬小屋を自分で作ってしまうサラリーマンでした。実家を引っ越して50年以上経ちますが、父親が作った棚は今も現役で使えています。子供心に「なんでうちの父親は宮大工にならなかったんだろう」と思うくらい器用でしたね。私のものづくり好きは、間違いなく父親から来ています。

凝り性が加速した、高校時代のプラモデル制作


小・中学校、高校と進む中で、やはり放課後は工作をされていたんですか?

久保田 – 小学生の頃はそうでもなかったのですが、高校時代は帰宅してからずっとプラモデルを作っていました。当時はタミヤの「1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ」や、ハセガワの「1/700 ウォーターラインシリーズ(戦艦)」、あとは飛行機ですね。例えば飛行機を作るなら、まず雑誌を買ってきて、零戦の内部写真などを徹底的に調べる。そして、キットには入っていない部品をプラ板で自作して足していくんです。さらに、小さな人形の「口」を開けて表情をつけたり。設計図は描かず、頭の中で「ああだろう、こうだろう」と考えながら即興で改造していました。

お父様譲りのこだわり具合ですね。

久保田 – いきなり機体の色を塗るのではなく、まずは下地に「銀色」を塗るんです。その上から本来の色を塗り、乾いた後に少しだけ削る。そうすると下地の銀色が出てきて、使い古した金属の質感が出るんですよ。嫌なガキでしょう?(笑)

日本史の先生になるはずが、なぜか「劇団」へ

そんな高校時代を経て、やはり進路も美術系を考えられたのですか?

久保田 – 実は日本史の先生になる予定だったんです。高校で日本史に興味を持ち、大学は文学部に進みました。私はよく「芸大や美大、保育系の学校出身」だと思われがちなのですが、美術も芸術も、学校で勉強したことは一度もないんです。

教員免許も取られたんだとか。

久保田 – 一応取りました。でも、大学4年生で教育実習に行ったり、採用試験の勉強をしたりしているうちに「……俺、これ無理だな」と思ってしまったんです。試験に受かる自信もないし、実習もうまくいかない。
そんな時、たまたま立ち読みした雑誌に、三ツ矢雄二さんが座長、田中真弓さんが副座長を務める劇団「プロジェクト・レヴュー」の第1期生募集が出ていたんです。

運命の歯車が動き始める

この日、つくってあそんだものは後ほどご紹介

久保田 – 当時はプラモデルの傍ら、落語もやっていたんです。その流れで「ちょっと芝居をやってみよう」と思い立ち、勢いで応募しました。ただ、当時はとにかく貧乏で、オーディションの費用が払えなかったんです…。友達に借りましたよ。その上、オーディション費を現金書留で送る送料すらもなかったんです。それもまた別の友達から借りて、どうにか応募しました。

お父様は急な進路変更を許してくれたのですか?

久保田 – 凄く怒られました。当然ですよね、大学4年までいって急に「劇団に入る」なんて言い出したんですから。実は大学に入学した時も一悶着あったんです。父親からは将来を考えて「経済学部か経営学部に行け」と言われていたんですが、私はどうしても日本史がやりたかった。必死に頼み込んで許可をもらった代わりの条件が、「1単位でも落としたら学費を全額止める」というシビアなものでした。

留年ではなく「1単位」でも、ですか。

久保田 – そう、だから入試よりも勉強しましたよ。その結果、人生で唯一の表彰状をもらい、1年間だけ特待生(授業料免除)になりました。

それはすごい! お父様も喜ばれたのでは?

久保田 – 一度収めた授業料が「現金」でバックされて、約束通り勉強したし、「もしかするとくれるかな…?」と思っていたんですが、全額回収されてしまいました(笑)。厳しい父親でしたが、出してもらった学費ですから文句は言えませんね。

大道具係から「ワクワクさん」誕生へ

「ワクワクさん」でお馴染みの久保田雅人さん

劇団に入ってからも、ものづくりの経験は活かされたのでしょうか。

久保田 – 劇団は大道具・小道具も自分たちで作りますから、私は実家から父親の道具を持って行って、若手に教えながらガンガン作っていました。もともとミュージカル劇団だったのですが、結局一度もソロで歌わせてもらえず、途中から完全にお笑い担当でしたけどね(笑)。そんな中ある時、田中真弓さんから「NHKで高見のっぽさんの後継者を探している」というお話を頂いて。「うちで大道具・小道具を作っていて、喋らせるとちょっと面白いのがいるから」と、私を推薦してくださった。

それが26歳の時ですね。

久保田 – そうです。それまでも教育番組や民放のレポーター、CMなど、オーディションは山ほど受けてきましたが、全部落ちていました。受かったのは、デビュー作とワクワクさんだけです。

そうして平成元年の6月頃、「ワクワクおじさん」という名前のパイロット版(試作番組)が始まったんです。

後編に続く。

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