アートブレイク-アートとジョークの関係性

彼の代名詞である、特別に長い鼻。そして毎朝、大声で騒ぎながら村中に嘘をふれて回る、それでいて憎めないキャラクター。『ONE PIECE』のウソップは、この大作の中でもとりわけ存在感を放っていると思う。

現実的に考えてみると、彼の場合は、その嘘が毎日続いたのだから、確かに隣人としてはちょっと厄介かもしれないのだが…。
それでも僕は、ちょっとした嘘、少しばかりの悪戯はあっていいように思う。というより、緊張した日々を弛緩するのには、とても大切なこととさえ思える。

なぜ人々は嘘をつく日を必要とするのか

そのひとつの根拠として、エイプリルフールの存在がある。試しにWikipediaで「エイプリルフール」と打ってみると、その起源の説明は次のようにはじまる。

エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていない。

エイプリルフール:Wikipedia

ここに書かれていることを、考えれば考えるほど不思議に思う。

他の季節のイベントであれば、その出自は大半が明らかだし、さらには商業的な視点が多少はチラつくもの。ところが4月1日ときたら、人々がちょっとした嘘をついたり、悪戯を企てるだけで、「お金」の入り込む隙はどうやら無さそうだ。

それでも未だに人々の暦の中に意識として存在しているのをみると、「この日」だけは、ちょっとのブレイクとして残しておきたい、そんな気持ちがあるのかもしれない。

そしてその感覚は、高尚と見られるアートの世界においても例外ではなかった。

これは、アートと、ちょっとした遊び心の話。

モナ・リザの新たな一面?

世界的名画である「モナ・リザ」。

1990年、インディペンデントは、モナリザの大規模な清掃を行う芸術修復チームが驚くべき発見をしたと報じた。汚れの層を取り除くと、絵の中の彼女は実際には顔をしかめていることがわかった。

というようなジョークで、「モナ・リザ」に対するこの手のジョークは、メディアから市民に至るまで、多くの人の間でもはや常套句になりつつある。

この他にも、美術館側が声明を出したり、展示企画をすることも少なくない。

例えば、エイプリルフール当日に本物そっくりの偽作品を展示したり、解説文に嘘の情報を混ぜたりする他、有名な芸術家の「新たに発見された」作品として、スタッフが制作した模造品を展示するなど、おふざけが過ぎるとも思えるが、この日だけはご愛嬌。

それだけではない。とある美術館では、過去に「全ての芸術作品がフェイクである」という看板を掲示したこともあり、単なるおふざけに留まらず、芸術とは何か、考えるきっかけにもなり得るのだ。

仕掛けに隠された思い

エイプリルフールではないが、とあるアートマーケットにて起こった一大事件も記憶に新しい。
まず、アートマーケットの世界では、セカンダリーマーケットなるものが存在する。作家が制作した作品を、自ら相場を計りつつ値付けし、それをコレクターやバイヤーが購入する。これをプライマリーマーケットと呼ぶ。対して所有者が再び作品をオークションに売りに出すことをセカンダリーマーケットと呼び、この時にプライマリーマーケットの価格との差額がすなわち、今後の作家としての市場価値に反映されるわけだ。

2018年10月5日、このアートマーケットにおいて、一躍注目を集めた大事件が起こる。
ロンドンで起きたその事件の首謀者の名は、バンクシー。

彼はこうした資本主義とアートの強い結びつきへのアンチテーゼとして、作品に、ちょっとした細工を仕掛けた。

その日は、「Girl with Balloon」と題された作品がオークションに出されており、次から次へ価格が高騰していき、価格が100万ポンド、日本円にして約1.5億円にまで昇り、落札ハンマーが下ろされた。するとその音を号令に、額縁に隠されていた装置によって、「Girl with Balloon」は木っ端微塵に切り刻まれたのだ。

Why Banksy’s ‘Shredded Girl With Balloon’ Painting May Now Be Worth £2 Million:Insider

「Girl with Balloon」は木っ端微塵に切り刻まれたのだ。

何となしに読み過ごすこの一文が、しかしアートとは何かという問いに対するひとつの見解を雄弁に語ってくれる。「Girl with Balloon」という物質そのものは確かに塵となったが、芸術としてのその「絵」は、装置が作動して初めて完成したと言える。いわば装置の作動は、最後の一筆だったというわけだ。

このように、ちょっと笑えるユーモラスなものから、凝り固まった芸術観へのアンチテーゼとして、アートとは何かを考えさせる内容のものに至るまで、様々な出来事を紹介してきた。

アートは怒らない。ちょっとのおふざけは許してくれる懐の深さは、「高尚なアート」のイメージとは大きくかけ離れたものだ。束の間の急速でコーヒーブレイクをするのと同じように、アートを舞台に、ギリギリを攻めたり少しのジョークを楽しむ、日々の生活の彩に、アートブレイクがあるといい。

EDIT: Ryo Kobayashi